コミュニティ指向性プライマリ・ケア

2011年暮れに、街づくりやNPO支援を行なっている小さな会社が主催する、5回連続の「コミュニティ・マネージメント・ゼミ」というワークショップに参加する機会を得た。そこには、新しいタイプの社会起業に取り組もうという若者、クラスの生徒をどうまとめていかについて新しい方法を模索している教師、アフリカのある国に学校をつくる活動をはじめた若者、ある街の開発に自治体とコラボしてかかわっている学生サークル代表など、これまで出会ったことのないタイプの方たちが参加していた。彼らとともに学ぶ時間は、僕にとって近年にないもっとも印象深い体験となった。チューターは多くの社会起業をサポートしてきたコンサルタントの方と、すでの様々なコミュニティを活発に運営している方で、お二人とも40代そこそこの非常に優秀な方で、多くの刺激的なコメントをいただいたが、特に家庭医である僕自身は、ゼミでのディスカッションを通じて「地域」というものを再度考えなおす機会を得ることができた。

ワークショップはこの質問から始まった。

「ある場所むかう乗合バスに30名の乗客がのりこんだ。さて、この乗客たちが、ひとつのまとまりとなり、そこに帰属意識をもてるような、そういう集団になるためにはどんなことが必要か?」

参加者から出されたアイデアは、まずは事故や災害への遭遇、乗客の中に病人が発生などだった。ドラマの見過ぎか?との笑いもでたが、その後バスに乗り込む人たちの目的が同じ行事だったら?あるいはガイドが乗っていたら?途中でみんなおりないで終点までいったら?といった意見が出る中で、徐々に明らかになってきたのは、人がある目的や価値で集まるための条件である。つまり、明確な目的、集団をファシリテートするリーダーの存在、集団への継続的な関与といったことである。こうしたまとまりをもち、居場所と出番のある集団を「コミュニティ」とゼミ参加者は呼んでいた。実は、「コミュニティ」はすでに日本語になっていたのである。

プライマリ・ケアの世界では、コミュニティとは地域や共同体のことであるが、僕が出会った若者たちにとっては、ゴロッとそこにある地域、あるいは昔ながらの地縁血縁というモデルはもう存在していない。コミュニティとは、意識的に追求するものであるという感覚を、彼らがもっていることに驚いた。同じ土地に居住して利害を共にし、政治経済文化などにおいて深く結びついている社会という意味での地域共同体は都市部ではすでに消滅しつつあり、その地域に必要なコミュニティは創りだすものであるという前提で彼らは考えていた。僕が彼らと話していて思ったことは、コミュニティを診断し治療するというようなプライマリ・ヘルスケアの考えは、現代では妥当性にかけるのではないかということである。地域診断やニーズ分析の対象となるような「地域」jはもうないのではないか?都市部において、僕達は「たまたま便利だから」「職場が近いから」という理由でそこに住んでいるのだから、人の集まりが自然できるわけがないことは自明である。例えば、都市化と並行して、実は学校や職場が居場所と出番を保証するコミュニティの役割をはたしてきたので、今。卒業や退職後、周りの人達とどうつきあったらいいのかわからない人(特に男性)が増えているといわれている。男性にくらべて女性は比較的コミュニティを生活圏につくり参画しているかもしれない。

何れにしても僕自身の中で地域医療のイメージが変わりつつある。つまり、地域の健康度を向上をめざす本来のプライマリ・ヘルスケアの理念を実現するためには、あらたに小さなコミュニティを沢山デザインして、人と人とのつながりを創りだしていくことが必要なのではないかという発想に転換してきている。おそらく地域医療における地域ということばは日本語としてのコミュニティと言い換えたほうがいい時代になっている。

※参考文献山崎亮「コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる」学芸出版社 2011